工芸アンプ 「あやめ」

回路図


  脱力するような簡単な回路だがあなどれない。

8Ω負荷  Wave Spectra サンプル数4096 ハニング窓 


  音は、エピタキシャル系のさらさらとした、情報量の多い、ソフトタッチで明るくめりはりの
あるものです。余韻も多いほうと思います。真空管アンプでは音に実在感がでますが、余韻
がなかったりします。

  特性も素直なもので、正しく動作していると推測できます。


  
完成予想図


 このように銀の装飾付き、合成漆仕上げになる予定です。

 今年は、これと水仙とダブルバスレフくらいしかやらないので超スローペースで進行中です。

 銀装飾をつくる技法はすでに完成しています。


正相アンプの場合と反転アンプの場合を調べてみた。

  反転アンプ (正相の図は省略したが同じCで構成)


  

周波数特性 8Ω負荷

ご存知の通りLM380Nはゲイン固定なので、正相で使う限りこのようなゲインとなる。

 入力カップリングC


  0.1μFだとまずい。


アンプの音質については、ノイズフロアの様子とクリップしていないときの高調波のようす
から推定することが可能です。

  1kHz正弦波


  自由創作アンプではこのような優秀なノイズフロアと、二次歪みが現れることが特徴です。




  対称性をよく管理されたアンプでは二次歪みは発生しません。



  あやめはICアンプでありながら、優秀なノイズフロアと若干の二次歪みを持つアンプになっています。

  クリップするまで歪みが現れず、二次歪みもでないような超弩級アンプは技術力が高い証左のように
思われたりしますが、聴いてみればわかるように実は芸の無い大飯食らいなアンプにすぎないのです。


  これはちょっと言いすぎたかも。

  付け加えますと、そういうアンプはちょっとスロースターターだったりしますが、使い込むとくせのなさが
わかるようになり、手放せなくなることが多いようです。

  さて芸があるアンプとはいったいどんなものを言うのでしょうか。

    MOSより特性が良いバイポーラを使った、ほとんど無歪のアンプ

   をスタート地点とすると、

    イ) セラミックCで味付け       例:TRIO KA7300D

    ロ) 終段にLAPTを使う        例:山水 AU−X1

    ハ) 終段にMOSを使う        例:山水 AU−α607MOS PREMIUM

    ニ) 終段にV−FETを使う       例:YAMAHA B−3

    ホ) ドライバーに真空管を使う     例:LUXMAN LV−103U

    ヘ) 増幅段にV−FETを使う      例:某アンプ

    ト) ベース電流でドライブする     例:某アンプ

    チ) 真空管前置アンプを設ける     例:某アンプ


   イ)などは安上がりで良いですね。ホ)は使ったことがありますが、終段MOSの多芸多才な
アンプでした。ウォーミングアップ後の透明感はKA5010といい勝負でした。

  某アンプとあるのは、メーカーが手を出さないくらい危ない思想のアンプなので特に名を伏せ
てあります。



  ここまで来ましたが。

  塗るのは、結構楽しいですね。


  水仙の塗装のとき、水研ぎをしていてはっと気づいたのは、水が入ると次元の違う
素晴らしいことが起こるということです。いくら目の細かいサンドペーパーで削っても表面は
傷だらけなのは変わりません。そこに水が入ると、砥石のような滑らかさになります。

  水が乏しく、生活用水がやっとという国ではこのような工芸品は生まれようがなく、生存
のための水しかないところでは、工業が生まれることは永遠にありません。

  日本は、雨水、雪どけ水、台風と水に困ることは滅多にない国です。日本人が本領を
発揮するのは、この水の豊富な土地で物作りをする時であることは間違いがありません。

  


  このように主要な文化財は17世紀までに造られており、それ以降は意外と少ないですが、造り
過ぎて財政が苦しくなったことと、19世紀からは近代化のために力を注がなくてはならなかったこと
が原因でしょう。





  これはもし日本が異民族に支配され、文化財が残らなかったとしたらこのような淋しい状況
になるという年表です。渤海のことを考えれば想像がつきます。

  今このように文化財がたくさんあるのは、要するに支配され植民されなければ、甚大な被害を
被ったとしても実際には復興できるということですから、それさえ気をつければ日本は容易には滅び
ない気がします。



  王朝が200年続けば立派なもので、それくらいもてば必ず文化的なものを残しているはずです。
チムール帝国はサマルカンドを残しましたし、ペルシャのサファビー朝はイスファハンを残しました。
渤海も200年続いたのですが、場所が悪かったために、都はいまでは航空写真でみると畑のような
状況になっています。

  こうした視点でみると、文化財の量と質は、平和が続いた長さと関係しますし、支配者の交代はそれ
を阻害するだけですから、中央政治の記述は簡潔な事実関係にとどめ、何を創造して何が残ったかを調
べてゆくのが、徒労感の無い、新しい歴史の勉強法といえます。

  もし長く続いた王朝が残したものがごくわずかであるとしたら、その王朝の正統性を疑う理由になるか
と思います。こういう視点はかなり客観的です。


中国略史
 
  秦のころ咸陽(西安郊外)に都を置いてた。いまでも万里の長城始皇帝稜兵馬俑が残
っている。漢の時代になって都を洛陽、後に長安に置いた。魏晋南北朝の時代、鮮卑族の北魏
は平城(大同)に都を置き、雲崗の石窟が造られた。洛陽に遷都してからは、龍門の石窟が
造られた。またそのころから敦煌莫高窟が彫られはじめた。北魏の時代には仏教文化が栄え、
洛陽には多くの寺社が造営されたが今では壊滅し、大同、五台山に幾つかの寺が残っている。

  唐の時代になり長安は国際都市として栄えたが、いまでは西安という呼び名になり、文化財も
ほとんど消滅し城門大雁塔鐘楼が残っている程度である。シルクロードの出発地として人気が
ある。

  宋の時代になり都は開封に置かれた。商業が栄え人口も100万人を数えたが、女真族
の金に圧迫され、モンゴル人の元に征服された。元は大都(北京)に都を置き、明に滅ぼされる
までその支配は約100年続いた。以後、現在に至るまで北京が首都となっている。紫禁城は明
の永楽帝のときに造られた。明代の文化財としては一三稜景徳鎮の磁器などが残っている。

  その後300年にわたり女真族の清王朝の支配を受けたが、近代化が遅れ19世紀には列強に
植民地化され、日本に台湾を奪われた。
  
   第二次世界大戦後は内戦となり、共産党勢力が勝利し毛沢東らによる独裁政権が生まれた。
国民党政府は台湾に逃れ、亡命政権ではあったが1970年代までは中華民国として諸外国と外交
関係を結んでいた。台北には故宮博物院がある。

  イギリス領だった香港は1997年に、ポルトガル領だったマカオは1999年に中国に返還された。

  中国共産党政権は、強大な軍事力を背景にして台湾を攻める構えを見せている。



渤海略史

  建国は、698年。ツングース系の靺鞨(まつかつ)族と唐に滅ぼされた高句麗の遺民が現在の
吉林省敦化市に都を置き「震国」と称した。唐は当初は震国を攻めようとしたが、うまくゆかなかった
ため、渤海郡王として柵封した(713年)。

  建国後は、留学生を派遣し唐の文化・制度を取り入れ仏教を重んじる律令国家を作り上げた。

 最初の都には古墳が残っており土器や副葬品も出土している(永勝遺跡)。最初に遷都したのは
上京龍泉府で、現在の黒龍江省寧安市にあたる。長安に範をとったこの都は、今では宮殿の基壇
が残っている程度だが(渤海宮殿遺跡)、中国政府の手で復元されつつあり近い将来世界遺産に
登録する予定に成っている。

  吉林省和龍には、中京顕徳府の跡がある。中心となる西古城は丘陵に囲まれており、その付近
から渤海3代王の娘であった貞孝公主の墓が出土し石室内部には彩色壁画が発見されている。周辺
には他にも河南屯古城海蘭古城があり、北台古墳群からは渤海三彩が出土した。

  9年ほど首府であった東京龍原府は日本海に面した琿春市に位置する。中心部には八連城があり、
周辺には温特赫部城等の遺跡がたくさんあり、二仏並坐像が出土している。

  王朝は15代約200年間にわたって続いたが周辺の情勢が変化し日本にも救援を求めたが、ついに
926年に契丹によって滅ぼされ国は消滅した。遺民の多くは高麗に逃れたといわれている。


  このように単語を覚えさせ試験に出してもなんの意味もありませんね。意味があるのは、資料を整理
し実際に旅行してそれらを見ることです。その逆でもかまいません。これは歴史の無常に思いをはせ、
流れていく現実を感じるという大人の楽しみですから、お金もかかるし時間も必要です。

  それと世界史を学んでゆくと自分の国がどうなってゆくのか、やはり安泰とはいえないことがわかり始め
ます。司馬遼太郎のように日本史を詳しく調べていっても国の形は見えてきません。この国のかたちは世界
史を学んで初めて見えてくるようになります。


  大体完成



  5月に作り始めて今ははや9月。夏場は作業は中断され、その間世界史のお勉強
だけが進みました。


付録  日本略史

  日本は気候に恵まれた温暖な島国で、3世紀頃には各地に豪族が分立していたが、
5世紀ごろ大和朝廷の征服活動により統一された。中国に隋が興ると遣隋使を派遣し、
文化をさかんにとりいれた。日本に仏教が伝来したのは6世紀頃といわれている。

  大和政権は律令制、均田制をとり入れ、長安にならって平城京を建設した。仏教を国教
とし、全国に国分寺、国分尼寺を建てた。大仏殿を建て、鋳造による壮大な盧舎那仏
安置した。漢字を音読文字として使った古事記、日本書紀、万葉集などを編纂した。この
ようにして国家の体制を整えた。

  (ふつうここまでやると重税に耐えかねた没落農民が蜂起したり、混乱に乗じて外国
勢力が入って来たりするのが通常だが、何事も無く平安時代に移行した。)


  794年平安京に遷都したあともひきつづき遣唐使を派遣することによって文物の移入に
努めた。外国勢力に破壊されることがなかったので、奈良、京都は今でも文化財の宝
庫である。平安時代には、かな文字が使われるようになり、日本独自の文学が生まれた。

  1192年武家政権が誕生し鎌倉に本拠をおいたが、朝廷は武家政権に権威を与えるも
のとして存続した。

  1274年に元と高麗の連合軍が、対馬、壱岐を攻め博多に襲来したが、武家政権がこれ
を撃退した。1281年にも襲来があったがこれも撃退した。

   (もしやすやすと上陸を許し負けていたら、彼らは日本人を大量虐殺したうえで高麗人を
 多数入植させていたと考えられる。南宋軍も上陸していたら日本は中国の一部となって
いたと考えられる。)

   武士の台頭により中央集権制はくずれ、封建制のような形になるが、大和朝廷
の権威を倒そうとする勢力は現れなかった。16世紀になり戦国大名が戦っていたころ、
スペイン、ポルトガルが植民地化を狙って宣教師を送り込んだが、もくろみは失敗し
た。1604年徳川家康は全国を統一し、江戸幕府を開いた。徳川氏は実質的には日本
の国王でありながら朝廷に任命された征夷大将軍という位置に自ら留まった。江戸時代
は大きな内戦もなく平和が250年続いた。幕府により各地の文化財も修復され整備された。

  19世紀になりロシア、アメリカが軍事力を背景に開国をせまるようになった。危機感
を抱いた地方の大名は連合して徳川幕府を倒し、天皇親政の明治政府が誕生した。
明治政府は知識人を欧州に派遣し、議会制度をとりいれ、軍備、教育制度を整備した。
日本はアジア諸国のなかでいち早く近代化に成功した。

  (もしこのとき近代化せずにいたら西欧列強の策略にはめられ、戦争をしかけられて
いたと思われる。そのときは、清のような状態になっていたと考えられる。もしそうだった
ならアジア諸国は21世紀になっても独立国家になっていたかどうかは怪しい。また今の
北海道があるのは明治政府の努力のお陰である。人も住まないような土地にはロシアが
入ってきてもおかしくはない。)


  朝鮮半島をめぐって清、ロシアと対立し日清戦争、日露戦争が起こったが海軍力に
優れた日本が勝利した。

  日本は台湾、朝鮮、南樺太、南洋諸島、満州を外地として資本を投入して経営したが、第二次
世界大戦でアメリカに敗れすべて失った。1945年には広島、長崎に原子爆弾を落とされ
多数の市民が犠牲になった。

  (もしここまでやらずに列強とも仲良くし、戦前の政府が続いていたとしたら、
婦人参政権も農地改革も財閥解体もなく徴兵制度も続いていたし、国民にとっては
辛苦以外の何物でもない外地経営も存続していただろう。戦争によって国内の
大改革を成し遂げたわけで本当に皮肉なものである。まあイギリスにはめられて米国と
の戦争になったわけなのだが、負けた相手が良かったとしか言いようが無い。)


  戦後はアメリカの統治を経て、1951年のサンフランシスコ講和条約で国際社会に復帰
した。日本の生み出す工業製品の良さは世界に認められ、奇跡的な経済成長を達成し
GDP世界第二位の座を今も保っている。

  (冷静に考えればイギリス、フランスの2倍の人口をもつわが国が同じ生産性を
もてばこうなるのは当たり前で、奇跡でもなんでもないと思う。あまり自分たちを
かいかぶらないで節約に努めるのが正しい道だろう。)


  アンプを組みこんだ。カブトガニは大きすぎて入らない。新たに放熱板付アンプモジュールを開発
した。







廉価なLM380だが、このような意匠をまとい世に出るとは誰が想像しただろうか。

(完)


世界史の続き

  冷静によく考えてみると、昭和20年にわが国は滅んだのである。財政は破たんし、
国軍は壊滅し、主要都市は焼け野が原になった。人口も多く失った。

  しかしそのときに失わなかったものが何であるかよく知ることが重要である。
それは、国土、自治、文化遺産、民族の純度である。

  これらを失ったとき国を元通りに復興することは不可能になる。違った国になるのだ。

  ローマは財政が破たんし軍が維持できなくなり、ゲルマン人に滅ぼされた。あるいは、
ローマ帝国が成立した瞬間から滅びることが約束されていたともいえる。

  中国は近代化の途上で内戦となり、コミンテルンの支配下にある共産党が暴力革命に
より政権をとった。毛沢東による統治は経済を破綻させ伝統文化を破壊した。

  アメリカ合衆国はその地理的な位置から、他国に滅ぼされることは考えにくい。
しかし将来的には国内の反乱を徹底的に弾圧する局面がでてくるかもしれない。
そういう要素ははらんでいる。

  日本が再び滅びないようにするには、国土、自治、文化遺産を守り、財政を破綻させ
ないことである。


西アジア略史

  メソポタミア、シリア、イラン、エジプト、アラビア半島、(アナトリア)を舞台として
シュメール人が現れた紀元前3000年ごろより激烈な闘争が続いた地域である。

  最初はセム族とイラン人の間で民族の興亡が続いた。アナトリア、シリアにギリ
シャが植民市を作ったがすぐ地図は塗り替えられる。

  ここではとても重要なものが生まれる。ユダヤ人(セム族)の作った旧約聖書(ユダ
ヤ教)、キリスト教、フェニキア人(セム族)が作ったアルファベット、アラビア人(セム族)
が作ったイスラム教である。

  旧約聖書のエレミア書には国が滅びゆくさまが描かれている。いつかは王は死に、
国土は奪われる。そのとき民族が消滅しないためには永遠不滅の拠り所が必要になる。

  西アジアで生まれた一神教の神こそ、国の興亡のなかから生まれた民族を守るため
の智恵なのに違いない。

  イスラエル王国はバビロニアに滅ぼされユダヤ人は流浪してゆくが、また2500年後に
イスラエルとして復活する。

  イスラム帝国は徐々にトルコ人に侵食され、周辺にトルコ人の王朝ができてゆく。
そういうとき思いがけずもモンゴルが来襲し西アジアはモンゴルに支配される。そのと
きトルコ人はアナトリアに逃げたのである。モンゴルが去るとトルコ人の天下である。
オスマントルコは400年もの間アナトリア、シリア、メソポタミア、エジプトを支配しつづ
けたが、最後は西欧列強に解体されそうになる。危なかったが奇跡的な近代化により
なんとかアナトリアに残ったのである。

  ここでもうひとつ、滅びないためのキーワードとして急速な改革というのがでてくる。

  そう、改革に遅れをとり滅びたという国は枚挙にいとまが無い。滅びたあとに復活
するというウルトラCを成し遂げたのはユダヤ人だけである。


   年表を読んでいてはたと気づいたのだが、何々が何年に起こったということには
さほどの意味や必然性は無いかもしれない。しかし何々から何々まで何年かかった
というのは歴史における速度を表している。

  例えば、
    明治6年 富岡製糸場開業 (外国人設計による工場)
    明治9年 新町駅屑糸紡績所設立 (日本人設計による工場)

  この速度を見れば日本の近代化の成功が感じ取れるのである。

  歴史の事象をこのようなスキームで考えてみる。


   朝鮮戦争の場合


  これは実際の史実がこうであったということで、元々のスキームは存在して
いただろう。それは実現しなかったわけで、歴史年表とはスキーム崩壊の集積
であると考えても良いであろう。

参考
    scheme : program of course of action for accomplishing some objective

   世界史入門